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カテゴリ:愛山自伝・俳句と短歌( 18 )
清水の頃・小学時代(六)


  夜の秋心の襞に呻く影



 どうしても忘れられない小学時代の記憶があります。

(佐野の頃 )
 小学二年になりましたわたしは休み時間を利用して一年のときの教室を校庭から窓越しにのぞきました。
 すると室内にいた一人の女の子が、わたしに気づき、近づいてきて、「なあに?」と咎めるような目を向けてきました。
 わたしはとっさに「ぼくは二年生だよ」と誇らしげに言い返しましたが、そんなことを自慢してはいけないという思いも同時にわいてきました。
 とても恥ずかしい記憶として残っています。

 また同じ二年のとき。体育の時間に縄跳びをやり、その回数を先生に報告しましたが、わたしは自分の跳んだ回数に不満で、「ぼくはもっと跳んだよ。ほら、あの場所で……。
君も覚えているよね」とありもしないことをでっち上げて、クラスメートに証人になることを強要しました。
 当然のごとくその男の子は怪訝な表情を浮かべていました……。


(清水の頃)
 転校生であるわたしに真っ先に友だちになってくれたクラスメートは、とても友だちの少ない男の子でした。「友だちの少ない子に声をかけられた。ぼくは友だちの少ない子に好かれるんだ」という思いは今日までも続いています。

……五年のときの東京オリンピックは、わたしが初めて経験した国家的イベントでした。
入場式の北出アナウンサーの実況に感動し、あらゆる種目を可能な限り白黒テレビで楽しみましたが、ふだんはとても厳しい担任の女の先生が、このオリンピックの期間だけは妙にやさしかったことを覚えています。
by aizan49222 | 2010-09-03 16:12 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・小学時代(五)
 とにかく生真面目で几帳面(だから学級委員などもやらされてしまったのです)。団体行動が苦手な子供で、遠足などは大嫌いでした。

 ドッヂボールをやった記憶はありますが、小学校の休み時間には、数少ない友人の一人のM君と、ほとんど相撲をとって遊んでいました(相撲と将棋好きは、明らかに父親の影響です)。
 贔屓の力士は、まず明武谷。それから琴ヶ浜、青ノ里。それぞれつり出し、内がけ、小手投げという得意技があり、天下の人気者ではありませんが、玄人好みの、それこそいぶし銀のような存在に、わたしはその頃から強く惹かれる傾向があったようです。

 NHKテレビの相撲中継もよく見ましたが、わたしは実況の北出清五郎アナウンサーの大ファンで、あの穏やかな、日本語を充分に咀嚼している大人の喋りに、何ともいえない安らぎを覚えたものです。

 そしてテレビといえば何といっても「シャボン玉ホリデー」です。バラエティーの草分
けです。クレージーキャッツです!
 クレージーキャッツの面白さといったらありませんでした。
 寄席演芸とは、また異なる魅力。
 わたしが住んでいた静岡では、たしか金曜日の夜の放送だったと思いますが、この時間帯が待ち遠しくてたまりません。内因性の鬱があるのか。その頃から悶々としていたわたしに、クレージーキャッツが精神的な主治医になってくれました。彼らの音楽コントを見ていれば、わたしはご機嫌でありました。


  (植木等さんの訃報に接した日に詠める歌三首)

  少年の心ときめく銀幕のクレージーキャッツ残像哀れ

  芸人になりたき夢をはぐくみし植木等の歌声に泣く

  ボケ、ツッコミ、ナンセンス、クレージーキャッツ白のスーツよ

by aizan49222 | 2010-07-14 15:36 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・小学時代(四)


  火傷負ひ学童のまゝに逝きし友昨日の如き歳月流る


 清水の小学校に転校してから、すぐに親しくなったのがH君でした。彼はとても明るいヤンチャな子供で、わたしとはまるで性格が違います。親しくなったきっかけは覚えていませんが、おそらくは人見知りをしないH君のほうから、わたしに接近してきてくれたのでしょう。家が近かったということもあるのかもしれません。粘土山と呼ばれた小高い山で一緒に遊んだ記憶があります。

 ……そしてその日、授業が終わって、掃除の時間となり、わたしはH君と並んで雑巾がけをしておりましたが、彼がいつもと変わらぬふざけた口調で「もう拭いてもいいかちら」といったのが、H君と会話をかわした最後となりました。

 H君はその晩、家のお風呂の縁に乗って(いかにもヤンチャだった彼らしいエピソードです)湯加減をみていましたが、誤って落下。全身火傷で亡くなりました。
 担任の男の先生が事故の模様や、入院治療の様子を、そのつど克明に知らせてくれましたが、H君はそのまま帰らぬ人となってしまいました。
 いかにも辛そうに「やはりH君は亡くなってしまったよ」と報告してくれた先生の顔を、わたしは今でもはっきりと思い浮かべることができます。

 クラスメートが揃って、H君のお通夜に出かけました。薄ら寒い一日でした(季節を覚えておりませんので、あるいはわたしの心がそう感じてしまったのかもしれません)。
 H君の菩提寺は、子供たちの遊び場でもありましたから、わたしは彼が眠るお墓を承知しています。
 しかしわたしはその後一度も、その前にたたずんだことはありません。素通りするだけで、目も向けません。
 H君の無念さを思うと、彼が大火傷を負った当日に話をした自分だけが生きていることに対して申し訳なさを感じてしまうからです。

 そしてその気持ちは今でも変わっていません……。
by aizan49222 | 2010-05-26 23:54 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・小学時代(三)

  短日や罪人(つみびと)のごとく飯を食む


 小学三、四年の頃だったと思います。わたしは弟と一緒に炬燵に入って画用紙に絵を描いておりました。もちろん落書きですが、その頃のわたしは武器を充分に備えた戦車のような乗り物の中で一人で暮らすことを夢想していて、自分の住まいでもあり、いつでも戦闘状態に入れるその乗り物を好んで描いていたのです。

 台所では母親が夕食の支度をしています。
 と、突然、母親が使っている包丁の音が、いつのまにかわたしに向かって、「いい加減にしろ。おまえは人に料理をしてもらえるような者じゃないんだ。おまえは邪魔な人間なんだ」といっているように聞こえてきてしまったのです。
 そのときの情景を、わたしは今でもはっきりと覚えています。
 ……その後も、わたしを責める音は続いて、母親が部屋に掃除機をかける音や、父親がベランダに干した布団を叩く音が、またもわたしに向かって、「おまえは人に何かをしてもらえる者じゃないんだ。いい加減にしろ」といって責めてくるのです。

 そしてこの音(声)が聞こえてくると、わたしは「ごめんなさい。こんなぼくですけれど、今は子供でお金も稼げませんし、何もできないのです。お願いですからご飯をつくってください。すこしはお手伝いもしますから、お掃除をしてください」とうなだれ、心が萎縮してしまうのです。
 得体の知れない罪悪感が、このときから芽生えてきました。
by aizan49222 | 2010-04-07 21:03 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・小学時代(二)

  転校生クラス会にて演じたる落語台本父が書きしも

 わたしが人前で初めて落語を演じたのは、まだ小学三年のときでした。どうしてそういう成り行きになったのか、また自薦か、他薦かも、まるで覚えてはいませんが、とにかくクラス会で、わたしが落語を演るという意思表示をして、そして演ることが許されたのです。

 しかしそうかといって、わたしが転校生としてクラスメートからのいじめを受け、自分の立場を守るために、いわば彼らに媚を売るために、落語を演ろうとしたわけではありません。むしろその逆で転校生のわたしはクラスメートに好意的に受け入れられ、その結果がクラス会での落語につながったのだと思います。

 佐野で「お笑いタッグマッチ」を観てから一、二年後に、わたしはいきなり落語を演じたいと思い、また演じたわけで、この間の記憶がこれまたまるで残ってはおりません。
 恐らくはラジオから流れてくる演芸番組を聴かされて、子供心にも大きな関心をもったのだと思います。

「演芸番組さえ聴かせておけばおとなしくしていた」
 という母親の証言もあるくらいですから……。

 また佐野のクラスメートを前に転校の挨拶をしたときに(不安な心を隠す裏返しの意識から)わざとおどけたポーズをしてみせて、それが思いもかけぬほど受けてしまい、そのめくるめく感覚が忘れられないでいたのかもしれません。

(今思い出しましたが、やはり佐野にいた頃、まだ転校が決まる前の話ですが、学芸会のお遊戯でみんなの前に立ったときにも、この感覚はありました。ひょっとするとこのときに味わった全身を突き抜ける快感衝動が……でも注目を浴びることは、とても恥ずかしいのですが……無意識のうちにわたしの自我に根を張ったのかもしれません)

 とにもかくにもこのときに演じたのは「時そば」でしたが、その台本を書いてくれたのは父親でした。新聞の折り込み広告をハサミで切って裏返しにして綴じたものに鉛筆で書いてくれました。
 父親の字は大きく筆圧も強く、わたしも今父親と同じ字を書きます。「時そば」をやりたいと、わたしが父親にリクエストをして、父親が台本を書いてくれたのです。

 しかし父親もよく落語の台本を書けたものだと思います。よほどラジオで落語を聴きこんでいたに違いありません。やはりわたしは父親の影響で落語が好きになったのでしょう。

 ただ小学時代には、父親が落語好きであったという印象は、わたしにはありません。それどころか高学年になるにつれて、演芸番組にどっぷりと浸かっていくわたしを、父親は好ましく思ってはいないようでした。そのことだけは身にひしひしと感じていました。わたしの芸人志望を、父親はすでに見抜いてしまったのかもしれません。

 芸人になりたい。
 わたしの人生は小学三年で、すでに決まってしまいました。
by aizan49222 | 2010-03-16 16:55 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・小学時代(一)


  梅雨雲や鈍行軋むチョコ苦し


 栃木県佐野市から一歩たりとも外に出たことのない一家が、静岡県清水市へ転居します。昭和三十七年六月十三日。前の晩は母方の叔父の家(母親の生家)に泊まり、駅までは誰の見送りもありませんでした。

 父親は、ごくまれに急行を利用するくらいで、特急電車などには絶対に乗りませんから、長距離とはいいながら、もちろん各駅停車の旅です。
 しかし当時はそれが当たり前だったようで、東京駅で乗り継いだ普通列車には、足利から清水へ転勤する父親の同僚の家族が乗り合わせていて、わたしはチョコレートをもらいましたが、すこしも甘くは感じられませんでした。
 新しい環境に移らなければならない不安と緊張を、そのときははっきりと意識しなかったまでも、やはり神経はおかしくなっていたようです。

 転居先は、幕末の剣客であり、明治の政治家でもある山岡鉄舟が再興したことで有名な鉄舟寺の近くにある四階建社宅の二階で、昨日の雨の名残りの大きな水たまりをよけて中に入りました。
 部屋は2DKの造りで、水道があって、お風呂もあります。わたしは清水でいきなり大金持ちになったような気分にひたり、カルチャーショックを受けました。

 新しい小学校に初めて向かう道の途中の角に大きな石があり、わたしが「この石を学校に向かう目印にしよう」と思った途端に、同行していた父親が、わたしが今脳裏に浮かべたことと、寸分違わぬことを口にしました。
 そしてその瞬間にわたしは「いつもこうだ。お父さんは、ぼくがわかっていることや、これからやろうとしていることを、いつも先に言って、そしてやってしまう」と思ったのです。今まで無意識にあった父親に対する反発が、このときに初めて意識化されました。

 ……まだ佐野にいた頃、神社で野球をやっていて右膝に怪我をして、大量の血が流れ、近所の人たちが家まで運んでくれましたが、母親は留守でした。そしてこのときにもわたしは「いつもこうだ。お母さんはぼくが困っているときに、いつもそばにいてくれない」と思ったのです。

 しかしわたしが五円玉をもてあそんでいるうちに誤って喉に詰まらせてしまったときに、母親は大慌てでわたしを背負い、医者まで運ぼうと、外へ駆け出しました。
 そしてそのときの振動で、わたしは五円玉を母親の背中に吐き出すことができましたが、わたしはこの一事があるので、母親とは折り合いをつけて暮らすことができました……。

 転向してすぐに夏になり、体育の水泳の時間となりましたが(あとにもさきにもこの小学三年のときに、わたしは生まれて初めてふんどしを締めました)。何回目かの授業のときから、わたしは奇妙な行動を繰り返すようになりました。
 それは(このプールは縦が二十五メートルで、横がその半分くらいでした)授業の終わりが近づきますと、わたしはプールの横を半分くらい泳いで、「大丈夫だ。ぼくはここまでなら確実に泳げるんだ」ということを何度も何度も確認するようになってしまったのです。

 自分でも「これはすこしおかしいなあ。こんなに何度もやることはないのになあ」と思いつつ、どうしてもその確認行為から抜けることができませんでした。
 わたしの生涯の病である強迫神経症が、このときに発病したのかもしれません……。
by aizan49222 | 2010-02-24 14:37 | 愛山自伝・俳句と短歌
佐野の頃(二)


  唐突に無花果落つる蛇這ひぬ


 わたしの生家は借家で、狭い庭にはガーベラの鉢が置かれて、共同の井戸があり、周りはとにかく狭い道でした。と、その日、遊びにいこうと家を出たわたしの目の前に、向かいの家の木から無花果が黒塀越しに落ちてきました。そしてその落ちた無花果の先に蛇がいたのです。
 その生で初めて見る蛇の姿は何とも不気味で、わたしはそれ以来巳年であるにもかかわらず蛇が苦手な動物となってしまいました。が、この路地裏を、近所のパン屋さんに嫁ぐ花嫁が、介添えのご婦人と共に挨拶まわりをしながら歩いていった、その絵に描いたような嫁入りの風景を、今でもはっきりと覚えています。


  来し方や氷つひたる雪だるま


 子供の頃のわたしはルガー拳銃を格好いいと思い、巨人と栃錦を応援し、漫画にも夢中になりました。しかしどうしてもうまく世の中に溶け込むことができません。とにかくすぐに対人関係で萎縮してしまうのです。

 ……我が家にテレビが置かれましたのは昭和三十五年、わたしが小学一年のときでした。母親が「テレビがきたよ」と、わざわざ学校まで知らせにきたのです。

 色々な子供番組がありましたが、わたしは「七色仮面」に夢中になりました。わたしの人生の中で、一番幸せだった場面は、あの番組を観ていたときです。そしてそれは未だに同じこと。できることならもう一度「七色仮面」を観てみたい。それは痛切な思いです。

 また大喜利番組の走りである「お笑いタッグマッチ」も忘れられない思い出です。記憶違いもあるかもしれませんが、春風亭柳昇師の司会で、柳家小せん師、三遊亭小円馬師などが出演されていたことを覚えています。この「お笑いタッグマッチ」で、わたしは寄席の世界を初めて知りました。衝撃的な番組でした。


  定めにてふる里離る少年の心隠せるおどけのポーズ


 その日帰宅しました父親が「決まった」と一言いいました。寡黙で、無表情な、普段の父親には似合わない興奮した声です。父親の静岡県清水市への転勤が決まったのです。でもわたしには寝耳に水の話ではなく(家庭内で以前からからそういう話は出ていたのでしょう)そうか、やはり決まったのかと、子供心にも思ったことを覚えています。

 そしてそれからというもの、わたしは近所の人たちから「大変だねえ」と何度もいわれましたが、お別れの記念に母親の友人の家の庭で写真を撮ったときも、学校の教室でクラスメートたちに挨拶をしたときも、わたしは妙におどけたポーズをしてみせました。

 わたしは生まれた土地を離れなければいけないことに困惑していたのです。
 しかし自分の気持ちをどう表現してよいのかがわからない……。
 で、おどけたポーズをしてみせた……。
 それ以外にあのときの心理を説明できません。
 昭和三十七年六月に、わたしは栃木県佐野市を去りました。
 小学三年のときでした。
by aizan49222 | 2010-02-18 12:03 | 愛山自伝・俳句と短歌
佐野の頃(一)


 命萌ゆ父鯉のぼり作りをり


 わたしは昭和二十八年に栃木県佐野市で生まれました。物心は三才の頃につくといわれていますが、わたしの脳裏に残っている最初の記憶が、冒頭の句となります。眠りから覚めた(意識が生まれた)わたしの目の先に鯉のぼりを作っている父親の姿があったのです。母親が手伝っていたことも覚えています。

 しかしそのときのわたしに鯉のぼりなどがわかろうはずはなく、あのとき父親は鯉のぼりを作っていたのだということがハッキリわかりましたのは、父親は将棋を指しますが(アマ有段者)父が指した将棋の棋譜が地元新聞に掲載されて、その切抜きを読んだ小学校高学年のときです。父親の職業は(後に工員に転じますが)鯉のぼり製造業となっていました。

 
 厄除けの寺にて遊びしあの頃は友の匂ひに水のうまさよ


 わたしの生家の隣が神社で、子供たちの格好の遊び場となっていましたが、近所にあったお寺の境内でも、よく野球をやって遊びました。佐野の人たちが「春日岡さん」といって親しんでいた春日岡山転法輪院惣宗官寺。佐野厄除け大師のことです。社会運動家田中正造の墓もあり、この寺でラジオ体操に参加した思い出もありますが、今では全国区の知名度になっていて、本当に驚いています。

 ……こうして外見上はごく普通に友だちと遊んでおりましても、わたしは耐えず緊張し、怯え、不安感に苛まれていました。学校も仮病をつかって早退してしまい、登校拒否の走りでもありましたし、とにかく世の中が怖くて仕方がないのです。

 しかしそうかといってこんな風な性格が形成されてしまった直接の出来事があったわけではありません。
 生まれついての内因性の鬱があるのか、それとも両親に一度としてほめられたことがなく、また甘やかされずに育てられたことに端を発しているのかはわかりませんが、ごく自然の成り行きでこうなってしまいました。
by aizan49222 | 2010-02-11 13:29 | 愛山自伝・俳句と短歌