講釈師品川陽吉が最後に高座を踏みましたのは、神保町にある貸席「寄席茶房」の独演会でございました。
これは3月終わりのことでございますが、以来一月半、新型コロナウイルス感染予防に関する自粛要請、及び緊急事態宣言のために、陽吉のすべての仕事がキャンセルとなってしまったのでございます。 さあそれからと申しますもの、陽吉の日常は、まず朝目が覚めて床を離れる前に頭の中でネタをさらいます。 これは稽古というよりも一種の精神安定剤代わりでございます。 午後は本を片手に散歩に出る……。 陽吉の住んでいるところは東京の西のはずれで、多摩川と野川という二つのが流れております。 陽吉は景色が単調な大河の多摩川よりも景色に変化がある小さな野川のほうを好みます。今年の野川は水量が少ない……。 しかしこの野川は昭和49年9月の台風16号のために多摩川共々大氾濫をおこして、NHKの「岸辺のアルバム」というテレビドラマにもなったほどでございます。 そしてその昭和49年は陽吉が講釈師になった年のことでもございました。 (この川が氾濫した年に講釈師になり、おれの人生も氾濫しっ放しだったなあ) と、陽吉はつくづく思います。 それは陽吉が子供の頃からの持病である「あるひとつの観念に取り憑かれると、それがどんなにバカバカしいことでも成さないことには強い不安に囚われてしまう強迫神経症」そして「ストレスを感じた途端に腹具合がおかしくなる腸過敏性症候群」また「緊張状態におちいった途端に手が震える本態性振戦」が、陽吉の人生に足止めを喰わせてしまうのでございます。 とくに本態性振戦という病は原因不明とされており、アルコールを摂取すると震えがおさまるところから、アルコール依存症者に多いとされておりますが、陽吉もその例にもれずに依存症に冒されて酒を断ち、爾来35年の歳月が流れております。 そしてこの数年陽吉の兄弟子品川宝山の弟子の金山が大ブレイクして講談界が一躍脚光を浴び始めたのでございます。 ところが好事魔多しとはまことにうまいことをいったもので、その最中のコロナ騒動でございました。 外に出るな、人と接触するなと、感染症の専門家たちは感染症の予防のためといっては、新しい生活様式を訴え、国民の洗脳を図っております。 ここにいたって陽吉たち演芸家は長い自粛生活、陽吉の造語でありますコロナバケーションに入ってしまったのでございます。 しかし自粛自粛と唱えるのは、仮に自粛したところで収入の道が途絶えることのない政治家や学者連中です。 いくら自粛したところで、演芸家に補償の道はありません。 このままいけば間違いなく演芸家の間には廃業ならばまだしも首をくくる者が出てくるかもしれません。 しかし陽吉は今のこの生活が仕事もなく酒ばかりを飲んでいた20代の頃と似ていると感じております。 あの頃は酒場に通い、酒を片手にしておりましたが。今は本を片手に川沿いの公園のベンチに座っている……。 ここのところ陽吉が読んでいるのは「平将門」の資料でございました。 今を去ること1080年ほど前の下総の国、ただいまの茨城県岩井市、桓武天皇の血をひく豪族平良持の倅として生まれながら、十六から二十八才まで京都の藤原忠平に仕えて虐げられ、国へ戻ってくると自分の領土は大伯父の平国香に奪いとられてしまっていた……。 陽吉にいわせれば将門が世を怨み、自分の訴えを聞こうともしない朝廷に反旗を翻すのは当然のことでありました。 今、演芸界をすこしも省みようとしない永田町の政治家たちに一泡ふかせる令和の将門がほしいと、陽吉はつくづく思います。 ……と、このときに一人の未就学の男の子が駈けてきたかと思うと陽吉に向かって「こんにちは!」と声をかけてまいりました。 陽吉が「こんにちは!」と返事をして本に目を転じましたところ、挨拶を返してもらったことがよほど嬉しかったものか、また駈け戻ってきたその子が再度「こんにちは!」と挨拶をいたします。 その子はママとお姉ちゃんと一緒に散歩をしている途中で、ベンチに座って淋しそうに本を読んでいるおじさんに気づき、励ましにきてくれたのかもしれません。 その子の後ろ姿に、陽吉は相馬の小次郎といっていた少年時代、坂東平野を馬で駈け巡っていたであろう平将門の姿を合わせ見たのでございます。 (本当に令和の将門がほしい) 陽吉は心の中でまたつぶやいたのでございます。 講談私小説「コロナバケーション」の一席、これをもって読み終わりといたします。
by aizan49222
| 2020-05-15 16:51
| ブログ講談会
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