プロの将棋の世界では男性プロと女流プロでは同じ土俵に上がれないほどの実力差があり、はるかに男性プロのほうが強いのですが、段位を表記するときには(男性プロの中に入って戦い勝ち得た同格の段位ではないということを明らかにするために)女流プロの段位に女流の二字をかぶせます。
つまり女流プロ四段は男性プロの四段とは同レベルではなく、まったく違うということを示しているのですが、わたしはここに伝統ある将棋界の意地をみます。
ひるがえって我々の世界も、いわゆる伝統芸である男性の「講談」と「女流講談」。また従来の男性の「真打」と「女流真打」という具合に呼称を区別したほうがよいかもしれません(ですから以下そういうふうに書きます)。
そうしないとこのままでは混迷をきたすばかりです。
「女流講談は女流講談という新しい芸能」といったのは講談評論家の故田邊孝治さんですが、わたしもまったく同意見です。
講談には骨格美があり、ダンディズムが流れますが、女流講談にはそれがありません。未熟というよりは女性では演じられない領域なのです(ただし例外的に一部女流には骨格美を持ちあわせている者もおります)。
ですから女流講談は講談とは似て非なるものなのであって、講談を好まれる人が感じる女流講談に対する違和感とズレはこの骨格美とダンディズムの欠如からきています。
ですから講談を好まれる人は、これは講談とは違う女流講談という芸能なのだなと意識無意識を問わずに一線を引いて違和感とズレを許容し、女流講談を聴いておられます。
ダンディズムを一言でいえば「破滅の美学」ですから、徳川天一坊や赤穂義士伝は、女流では無理です。
私見では女流講談は講談に内在する三つ目の要素であるファンタジーで勝負する以外にはないと思います。
つまりたとえば天保水滸伝でいえば「笹川の花会」「三浦屋孫次郎の義侠」。国定忠治でいえば「忠治山形屋」「忠治の娘」。清水次郎長伝でいえば「仁吉の離縁場」「羽黒の勘六」はダンディズムがテーマになりますから、ここは避けるべきですが、物語の他の個所を痛快娯楽時代劇として演じることは、女流でも可能です。
もちろん女性が主役のものや、単純な武芸物などは女剣劇の感覚で充分に高座にかけられるでしょう。
また女流講談を好まれるほとんどの方は講談(骨格美とダンディズム)に関心を示しませんが、ここに女流講談という芸能の大きな特徴があると思っています。
……講談も女流講談も聴ける講談カフェ昼席に、ぜひどうぞ(笑)。
『講談カフェ昼席』
6/14(火)6/21(火)13:15
らくごカフェ(神保町駅A6・神保町交差点古書センタービル5F…ビル裏口エレベーターより・降りて左・千代田区神田神保町2ー3)
2000円(ワンドリンク付・ブログプリント持参割引なし)
6/14(火)紅佳・神田真紅・神田あおい・神田春陽(仲入り)神田愛山
6/21(火)みのり・神田松之丞・神田すず・神田織音(仲入り)神田愛山