「師匠、そろそろ名前をつけてください」
入門して半月ほど経ちましたか、新宿末広亭へ鞄持ちでついていった帰り。ラーメン屋でご馳走になりながら、わたしは思いきって師匠にお願いをしました(師匠に願い事をしたのは、後にも先にもこのときだけです)。芸名をつけてもらわないことには、おれは本当に弟子入りが叶ったのかと、不安で仕方がありません。 師匠は「ウーン、そうだねえ」と呟き、小考して「これでいいだろう」と陽寿(ようじ)という名前を割り箸袋の裏に書いてくれましたが、この名前は三日でボツになりました。語尾が下がって若者らしくないという理由からです。 そしてその代わりにもらった名前が一陽来復の一陽。すっきりしていてわたしは大いに気に入り、同じく気に入ってくれた一門の客分馬場光陽先生は、わたしに直筆の「三方ヶ原軍記」の台本をプレゼントしてくれたほどです。 わたしは一日おきに師匠のところへ電話を入れます。もちろん用事があれば出かけていき、掃除、片づけ、買い物等の雑事をこなすわけです。 いちばん最初に教わりました読み物は「鉢の木」以下「笹野権三郎」「清水次郎長伝」の順となります。 カセットレコーダーなど持っていませんから、旧式のテープレコーダーを風呂敷に包んで担ぎ持参し、師匠に読み物を吹き込んでもらうのです。 ……さすがに師匠はこのテープレコーダーには驚いたようで、その後しばらくして「これを君に貸してあげるから」という名目で、わたしにカセットレコーダーをくれました……。 そして覚えたあとは聴いてもらわなければいけません。 師匠の稽古は講談を音階としてとらえて、語尾の上げ下げ、セリフの緩急を、それこそ音符をなぞるようにして教えていきます(師匠は社交ダンスの教師を審査する資格をもっていました)。 人物描写や性格設定などについて注意を受けたことは一度もありませんが、形や仕草にはうるさかったです。 初高座は入門後三月目、麻布にあったヘルスセンターでの「鉢の木」。 講談定席本牧亭に月に十日ほどつめての楽屋修業と、前述した通りに師匠の鞄持ちで落語の席や地域寄席についていくのが、わたしのおもな仕事で、アパートのある中野から本牧亭のある御徒町までを国電で往復してセブンスターを買うと足りなくなるワリ(給金)しかもらえずに、いかに月六千円の家賃とはいえ、あれでよく暮らせていけたものだと、未だに不思議でなりません。 無意識にうつむき歩き肩縮む身に備はりし悪癖を知る ……その日師匠は帰宅途中に急に振り返りますと、鞄持ちのわたしに向かい「君は下を向きながら歩く癖がある。それはいけない。もっと胸を張って歩きなさい」と諭しました。師匠はわたしのそれまでの人生を見事に見抜いてしまったのです(将棋を指しながら形勢が悪くなると舌打ちをする癖も、後日楽屋で師匠に指摘されました。これは明らかに父親譲りです)。 しかしわたしのこの癖は未だになおってはおりません……。 ところで釈界(講談界)は何度も合同分裂を繰り返してきていますが、わたしが所属したその頃の日本講談協会は神田山陽一門と田辺一鶴一門の両派のみで形成されていました。 しかしそのほとんどは俳優や他の演芸畑からの横滑り組で三十代を越えた者が多く、一鶴門下の中には天狗連(セミプロ演芸家)育ちで、師である一鶴先生のことを師匠とは呼ばずに「一鶴さん」と名前で呼んでいる者もいたほどです(彼は一鶴先生よりも年上でした)。 頭数が四十人もいなかった当時の東京の講談界。師匠も一鶴先生も、とにかく人数だけは揃えようと競って弟子をとったのかもしれませんが、わたしと同世代の者が楽屋にいないのです。 ですからわたしは協会の違う宝井畑の人たちと付き合うようになり、その関係は今でも続いています。 落語の若手の人たちには(修業の辛さ云々は別の話にしても)毎日通う寄席があります。太い伝統芸の枠組みの中で守られているという安心感がある。が、講談の若手にはそれがない。 わたしの場合一日おきに師匠に縛られているという拘束感はありますが(もちろん緊急連絡が入ればいつでも駆けつけます)講釈師として毎日出かける席がないというのは、あまりにもせつなく、焦燥感にも責め立てられて、空いた時間を埋めることに苦労しました。 で、よく酒を飲みました。 観光バスに乗車して名所旧跡巡りの仕事を始めたのも、この前座時代からです。
by aizan49222
| 2012-03-04 22:19
| 愛山自伝・俳句と短歌
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