春寒し大洋キャンプ目を見張るコート姿の立川談志
わたしの育ちの故郷である静岡の草薙球場には、毎春プロ野球の大洋ホエールズがキャンプをはっており、小学校高学年であったわたしは、サインをもらいに、よく出かけたものです。
ところがその日のグランドには、大洋の選手に混じり、マウンド近くにコート姿の人が立っていました。
「(NHKテレビ)まんが学校の司会の人だ!」
わたしは思わず隣の友人に叫びました。わたしはスタンドの上段から談志師匠を発見したのです。演芸マニアであった子供心にも、談志師匠は他の落語家さんとは違ってみえました。一口でいえばとにかくスマートで、カッコよかったのです。
少年の心ときめく木賊刈り「勘定板」に「ねずみ穴」聴く
高校三年の一月の終わりだったと思います。わたしは大学受験の下見のために上京し、寄席の目黒名人会を訪れました。
それまで学校をサボってまでも談志師匠が出演するテレビを見て、社宅アパートの屋上に上がって周波数を合わせ、雑音混じりのラジオを聞き続けてきましたが、この日は夢にまで見た談志師匠のトリ席なのです。
出囃子の木賊(とくさ)刈りが鳴り、わたしが初めて生で聴く談志落語は「勘定板」でした。
そしてわたしはこの日(どうしてそういうことになったのかは、まるで覚えていないのですが)目黒名人会のポスターと談志師匠の手拭いを入手しました。
その後わたしは大学生となり、談志師匠の追っかけとなって寄席を巡り、新宿末広亭で聴いた「ねずみ穴」に感動したわたしは追い出しの太鼓が鳴り、頭を下げ続ける談志師匠にお願いをして握手をしてもらいました。
そしてその手の感触を忘れないように帰路につき、川崎駅から下宿までの道を三十分以上かけて歩いたものです。
楽屋にて距離をおきたる談志師の立ち居振る舞い神の如くに
わたしは何度も楽屋口で待ち受けて、談志師匠に弟子入りを乞おうとしましたが、いざその場面になりますと強い内的禁止がおこり、足がすくんで、どうしても行動をおこすことができません。
今にして思えば蛙が初めて見る牛の巨大さに驚いて、身も心も萎縮してしまったのかもしれません。
それでも講釈師になり、何度か楽屋はご一緒させていただきました。もちろん声などはかけてはいただけません。ただこちらから一方的に見つめるだけです。
しかし談志師匠と同じ空間にいられるだけで、わたしは大満足でした。
談志師の訃報伝へる落語家の口の動きをうつゝに見る
平成二十三年十一月二十三日。この日わたしは多磨墓地のお寺で夕方から開かれた地域寄席に出演し、その打ち上げの席で、同席していた落語家から談志師匠の死を知らされました。
わたしは現実感覚が抜け落ち、真っ白な頭で、虚脱状態のまま、彼の説明を聞いていました。
帰宅してからは談志師匠の死を報じるテレビニュースを見続け、翌日は可能な限りワイドショーを録画し、スポーツ紙四紙と、数日後に発売された週刊誌を買いました。
もう講談の神田愛山ではありません。一演芸ファンの立場にもどって、談志師匠を追いかけ続けた四十五年の歳月を偲びました。
わたしの人生の大きな支えとなってくださったお二方。
平成八年に結城昌治先生が逝かれ、今度は談志師匠が亡くなられました。
わたしは今途方にくれています……と、ここまでこの原稿を書いて床についた夜、わたしは談志師匠に弟子入りが叶った夢を見ました。
談志師匠のお宅で(しかし間取りは、わたしのアパートと同じでした)わたしは隣の部屋で用足しをしている談志師匠を待ち続けています。
やがて襖が開いて談志師匠が現れた瞬間!わたしは目が覚めました……。