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入門まで(二)
 鬱々とした、本当に鬱々とした学生生活でした。
 入学してからふた月後には、わたしは経済的事情という理由をつけて、両親には無断で、学校に休学願いを提出しました。完全なノイローゼ状態で精神の収拾がつかなくなってしまったのです。
 ですから時の流れを氷結させたかったし、これで何かが変わると思いましたが、何も変わりませんでした。

 ……夏休みの終わりが近づいてきました。
 停留所でバスを待っているわたしを、母親は四階建ての社宅の屋上から見送っています。距離はありますが、彼我に視界を遮る建物はありません。見つからないようにしているのでしょうが、わたしはバス停に立った瞬間から、母親の存在には気がついていました。
 しかし母親が心配するのも無理はありません。
 わたしは帰郷している間、休学したことはもちろん、追いつめられ、悶々としている胸中を一言ももらさずに、ただふてくされ、ごろ寝をしていただけだったのですから……。
 わたしは誰かに道を決めてほしい。先導してもらいたいと、そればかりを考え、いつまで経っても自立できない自分に腹を立てておりました。

 川崎の下宿に帰っても、時々階段を上がってくる野良猫にエサをあげること以外にやることはありません(アンパンをあげたこともありますが、猫はアンパンは食べませんね)。このまま勉強をやり直して、学生生活を続けようという考えと、落語家は断念して、何故一日も早く神田山陽の弟子にならないのだという思いが葛藤して、どうしても行動に移すことができません。
 が、時間だけは容赦なくすぎていきます。相変わらず寄席通いはやまず、故郷から共に上京した高校時代の同級生Aの新宿の下宿を訪れることだけを唯一の楽しみに、方針が定まらず、心の整理もつかないまま、わたしは翌年の四月に復学しました。

 ……通っていた英語の専門学校をやめて、「アルバイトに精を出して資金を貯め、アメリカに渡る」と、Aがわたしに告げました。
 Aは高校の頃から英語が得意で、アメリカでの暮らしに憧れておりましたが、「あの学校の授業では、とても英語の力は身につかない。だから直接アメリカに渡るのだ」と言います。
 わたしよりも先にAの欲求不満が爆発した……というよりも、人生の目的に向かって軌道修正を試み、本格的に行動を開始したといったほうがより適切でありましょう。
 わたしはその頃川崎を移り高校の先輩であるBと、中野の安アパートで共同生活を送っておりましたが(中野と川崎を電車とバスを乗り継いで二往復しただけで引越の荷物を運び終えました)AはBを頼って築地の魚河岸でアルバイトを始めました。Aの目に光がもどりました。
 わたしはまたも敗北感を味わい、自責の念に苛まれました。せっかく復学したというのに、このままいけば留年は間違いありません。去年の繰り返しをしているにすぎないのです……。

 その年も寒さを感じる季節になりました。オイルショックによるトイレットペーパーの買い占めで、世間はだいぶ騒いでおります。南こうせつとかぐや姫の「神田川」が大ヒットをしておりました。
 そんな頃、Aと共に高校時代の親友でありましたCが上京してきました。受験の下見のためです。
 Cは高校卒業後地元で職を得、短大の夜間部に通っておりましたが、これからは心機一転東京の大学で学ぶのだと申します。
 友人たちが皆自分の道を進み始めております。
 彼らの前で、もうこれ以上ぶざまな姿は見せられない!!
 それは突然沸き起こった思いでした。
 わたしは友人たちの行動力を目の当たりにして、ようやく迷いから吹っ切れたのです。
 腹の底から突き上げてくる熱いものを感じました。
 思えばずいぶん長い道のりでした。

 中央線沿線のD(高校は違えど、やはり故郷の友人)の下宿に数人が集まって宴会が始まりました。皆Dのギターに合わせてフォークソングを歌っています。わたしはそのスキをうかがって抜け出し、駅前の公衆電話から山陽に電話をかけました。
「浅草演芸ホールに出ているから、そのうちに訪ねていらっしゃい」
 と山陽は言い、わたしはその通りにしました。

  浅草の寄席の隣の喫茶店弟子入り叶ふコーヒー冷へる

 昭和四十九年二月二十二日、わたしは二代目神田山陽の弟子になりました。二十歳のときでした。
by aizan49222 | 2011-10-02 22:27 | 愛山自伝・俳句と短歌


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