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入門まで(一)
 昭和四十七年春、わたしは駒沢大学に入学しました。芸人志望の決断もつかず、そうかといって地元で就職する気もありませんでしたから、進学する以外に進むべき道はなかったのです。
 東京へ出れば何とかなるという甘い気持ちもありました。

 下宿は川崎で、近所に父方の叔父が住んでいるところから父親が決めました。近くに川崎大師があります。
 一階は大家と倅夫婦の住居。外側に張り出された階段を上がり、下宿人が住む二階は三室で、わたしは角部屋、四畳半一間で一万五千円の家賃。扇風機もコタツもありません。ラジオと文机だけが唯一の財産で(ラジオからはよく吉田拓郎さんの「旅の宿」が流れてきましたし、眠れぬままにニッポン放送のオールナイトニッポンも聞きました)トイレも流しも共同でした。

 しかしわたしはこの下宿で一人暮らしを始めてから、己の未熟さを痛感することになってしまいました。
 たかだか一週間でホームシックとなり、実家へ帰ってしまいましたし、すこしも親離れしておらず、大人ぶっていた自分がいやになってしまったのです。毎日が不安で、酒とタバコを覚えたのもこの頃です。

 駒沢大学落語くらぶに所属しましたが、それは部活でもしないと、まったく学校に行かなくなってしまうからで、わたしはその生活のほとんどを寄席通いに費やしておりました。
 浅草演芸ホールに新宿末広亭は入替なしですから、昼の前座さんから夜トリまで昼食抜きで聴きつづけました。東宝名人会は他の寄席ではお目にかかれない出演者が揃いましたし、マニアックな池袋演芸場と都会的な上野鈴本にも足を運びました。

 楽屋口で待ち受けて憧れの的である落語の師匠に弟子入りを乞おうとしましたが、いざその場面になりますと、まるで金縛りにあったかのように足がすくんで、どうしても前に進みません。何度試みてもダメでした。
 そしてそのたびに身を切られるような挫折感を味わってしまうのです。
 今冷静に振り返ってみれば、寄席通いをする間に知り合った若手落語家さんたちと酒を飲み、話を聞き、その生存競争の激しさと、洒落のきつさをみるにつけ「お前の性格では、とても落語家は無理だ」と強い内的禁止がかかってしまったものと思われます。

 ……川崎の下宿から学校へ向かうには、まずバスで川崎駅まで行き、それから南武線で武蔵小杉、東横線に乗り換えて田園調布からさらにバスに乗らなければなりません。
 この道のりが何とも煩わしく、わたしはこの煩わしさを登校拒否の理由にしていました。
 そしてその日も川崎駅から南武線には乗らずに、上りの京浜東北線の電車に乗ってしまったのです。
 ……初めて訪れた改築間もない上野本牧亭の昼席は若手講談会でした。客入りは薄く(その定連たちが昔の講釈師の噂話をしていたことは忘れられません)落語界にくらべると、とても若手とはいえないような年齢の出演者で、わたしは愕然としました。

  張扇薄き座布団下足札上野の昼の気怠き釈場

 わたしは寄席の高座を聴くだけで、弟子入りの承諾をもらっている山陽とは、上京してからも一切連絡をとってはいませんでした。
どうしても自分の人生を決めることができなかったのです。
赤面のあまり自分の過去に五寸釘をぶち込んでやりたくなります。
by aizan49222 | 2011-09-19 12:58 | 愛山自伝・俳句と短歌


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