わたしは以前から歯医者さんにグラグラしている下の前歯を左右隣の歯にボンドでくっつけて支える処置をほどこしてもらっておりますが、その日の朝、片側のボンドがはがれかかってきたような感触があり、鏡を見て確認しても、これはいつもの気のせいで、多分大丈夫だろうとは思ったのですが、結局受診しました。
ことほどさようにもってうまれた得体の知れない罪悪感からくるものか、それともわずかな危険をも見逃さずに排除しようとする強迫観念からくるものか、とにかくわたしは臆病なのです。
そしてこの何事にも臆する心が、わたしの人格の中心にあるのかもしれません。
歯医者さんのあと、わたしはそのままいつものコースを散歩することに決めました。
まず歯医者さんから20分ほど離れたペットショップにいってネコを見たあとは、さらに30分歩いて私鉄の駅の近くにある安物衣料品店を冷やかし、駅構内のベンチに座って一休みします。
コーヒーと洋風の食べ物が売り物のファーストフード店が改札口の真ん前に二軒並んでいますが、わたしは誰かについてきてもらわないと、この種の店に入ることができません。
というのも「いらっしゃいませ。コーヒーとナンタラカンタラをチョイスなさってセットになさいますと、カンタラナンタラになり、お得になります。いかがなさいますか」と、説明というよりは、ただ一気呵成に喋っているだけという店員の言葉が理解できないからなのです。
緊張のあまり返事ができません。
だからどうしてもわたしと店員の間に立って意思の疎通を図ってくれる通訳が必要になるわけです。
それにたえずせかされているという店内の感じが、わたしの性に合いません。
……その駅構内のベンチに、今年に入ってから女性ホームレスの姿を見かけるようになりました。
キャリーバックを引きずり、花柄のバックを持って、時々ノートに几帳面な細かい字で書き物をしています。
年齢不詳ですが、ひょっとするとわたしと同世代かもしれません。何となくそんな気がするのです。
彼女は誰にも迷惑をかけることなく、いつも顔を伏せてひっそりとしています。
時々一点を見据えていますが、しかし見据えているように見えるだけで、実際は何も見ていないのかもしれません。
が、もし見ているとすれば、わたしは彼女にどう見られるのでしょうか……。
わたしはそういうことが気になるのです。
この日の散歩で、わたしは今度の自主制作CDに入れようと思っている講談私小説「ベラ」を頭の中で稽古しました。
さまざまなことを構想するのも、この散歩の道々です。
そして必ず甘味を買って帰ります。