クレージーキャッツのあとを追うようにして、ザ・ドリフターズが人気者となりました。わたしは音楽コントが大好きで、早速「ズッコケちゃん」のレコードを買いました。コミックバンドに強い憧れをもち、自分がもしコミックバンドを結成したらと、ザ・フールという名前まで考えました。
その頃の静岡はNHK総合に教育、そして民放が一局しか入りませんでしたが、わたしは時には学校をサボってまでも、テレビの演芸番組を見続けました(このことが今のわたしの貴重な財産となっています。
炬燵入り円生聴きたくなりにけり
落語もずいぶん聴きましたが、その頃わたしが聴いた師匠連は、ほとんどの方が鬼籍に入られておられます。子供心にも円生師匠の至芸には感動を覚えて「円生は上手すぎるから嫌いだ」といった父親の言葉は忘れられません。柳家金語楼先生の新作落語集が三冊出て、わたしのバイブルとなりました。
一方、本で覚えた落語をクラス会などで演じることは続けており、「おまえが落語をやってる佐藤か!もっと真面目な男かと思ってた」と、技術の先生にいわれたことがあります。
講談は後にわたしの師になる二代目神田山陽を聴きました。実にわかりやすく、落語のように面白い講談でした。テレビで「井伊直人」ラジオで「河村瑞軒」「忠僕元助」「応挙の幽霊」等……。あとはわたしと同期の宝井琴調さんの師匠である馬琴先生。
東京ぼん太先生にすっかりハマってしまったキッカケは、同じ栃木県の出身であるということと「まあいろいろあらあな」という歌が大ヒットしたからです。この曲はお笑いタレントにしては珍しくシリアスで、お笑いといえば一段低く見られてしまうようなその頃の風潮の中、お笑いタレントでありながらスターダムにのし上がったぼん太先生に、わたしは夢中になりました。
ぼん太先生のトレードマークである唐草の背広にあやかって、唐草の服を作ってくれと、子供のようなダダをこねて母親を困らせたり、その歌詞をすべて暗記するほどに、LPレコードを何度も何度も聴き直し、漫画雑誌の少年キングに連載されていたエッセイをむさぼるように読み、主演映画も観ましたし、ファンレターも書きました(サイン入りのポスターが同封されたご返事をいただき、わたしは父親の顰蹙の目を意識しながらも、そのポスターを机の横の壁に貼ったものです)。
それから星移り、時変わり十数年の歳月が流れ、何という定めか(古典の講談口調)!わたしは千葉県のクラブでぼん太先生の司会をつとめましたが、控え室でご挨拶をさせていただいたときには足が震えておりました。
まずヒット曲「東京の田舎っぺ」を歌って、ぼん太先生のショーは始まりました。この思い出はわたしの宝物です。
昨日までグループサウンズの話をしてキャーキャー騒いでいた女の子が、ある日突然朝の教室で「欽チャンに二郎さん」といい出しました。お笑いの世界から若い女の子たちのアイドルとなったコント55号の登場です。
そのコントは今までに見たことのない面白さで、その影響を受けたわたしは中学の謝恩会で、友人数人と病院での手術風景のコントを演じましたが(もちろん自分で台本を書いて)終わって下がった舞台の袖で「やはり佐藤はこういうことをやり続けていきたいのか」と、わたしに謝恩会でコントをやることを許してくれた先生にいわれたものです。