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清水の頃・小学時代(一)


  梅雨雲や鈍行軋むチョコ苦し


 栃木県佐野市から一歩たりとも外に出たことのない一家が、静岡県清水市へ転居します。昭和三十七年六月十三日。前の晩は母方の叔父の家(母親の生家)に泊まり、駅までは誰の見送りもありませんでした。

 父親は、ごくまれに急行を利用するくらいで、特急電車などには絶対に乗りませんから、長距離とはいいながら、もちろん各駅停車の旅です。
 しかし当時はそれが当たり前だったようで、東京駅で乗り継いだ普通列車には、足利から清水へ転勤する父親の同僚の家族が乗り合わせていて、わたしはチョコレートをもらいましたが、すこしも甘くは感じられませんでした。
 新しい環境に移らなければならない不安と緊張を、そのときははっきりと意識しなかったまでも、やはり神経はおかしくなっていたようです。

 転居先は、幕末の剣客であり、明治の政治家でもある山岡鉄舟が再興したことで有名な鉄舟寺の近くにある四階建社宅の二階で、昨日の雨の名残りの大きな水たまりをよけて中に入りました。
 部屋は2DKの造りで、水道があって、お風呂もあります。わたしは清水でいきなり大金持ちになったような気分にひたり、カルチャーショックを受けました。

 新しい小学校に初めて向かう道の途中の角に大きな石があり、わたしが「この石を学校に向かう目印にしよう」と思った途端に、同行していた父親が、わたしが今脳裏に浮かべたことと、寸分違わぬことを口にしました。
 そしてその瞬間にわたしは「いつもこうだ。お父さんは、ぼくがわかっていることや、これからやろうとしていることを、いつも先に言って、そしてやってしまう」と思ったのです。今まで無意識にあった父親に対する反発が、このときに初めて意識化されました。

 ……まだ佐野にいた頃、神社で野球をやっていて右膝に怪我をして、大量の血が流れ、近所の人たちが家まで運んでくれましたが、母親は留守でした。そしてこのときにもわたしは「いつもこうだ。お母さんはぼくが困っているときに、いつもそばにいてくれない」と思ったのです。

 しかしわたしが五円玉をもてあそんでいるうちに誤って喉に詰まらせてしまったときに、母親は大慌てでわたしを背負い、医者まで運ぼうと、外へ駆け出しました。
 そしてそのときの振動で、わたしは五円玉を母親の背中に吐き出すことができましたが、わたしはこの一事があるので、母親とは折り合いをつけて暮らすことができました……。

 転向してすぐに夏になり、体育の水泳の時間となりましたが(あとにもさきにもこの小学三年のときに、わたしは生まれて初めてふんどしを締めました)。何回目かの授業のときから、わたしは奇妙な行動を繰り返すようになりました。
 それは(このプールは縦が二十五メートルで、横がその半分くらいでした)授業の終わりが近づきますと、わたしはプールの横を半分くらい泳いで、「大丈夫だ。ぼくはここまでなら確実に泳げるんだ」ということを何度も何度も確認するようになってしまったのです。

 自分でも「これはすこしおかしいなあ。こんなに何度もやることはないのになあ」と思いつつ、どうしてもその確認行為から抜けることができませんでした。
 わたしの生涯の病である強迫神経症が、このときに発病したのかもしれません……。
by aizan49222 | 2010-02-24 14:37 | 愛山自伝・俳句と短歌


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