昨年の夏にパソコンが壊れて、新しい物を購入、設定、立ち上げるまでにひと月の間があり、そうすると当然それまでパソコンに費やしていた時間に穴があき、その空いた時間をうめるべく、読書の習慣が復活しました。
吉村昭です。
この先生の作品を初めて読んだのは自由律の漂泊の俳人尾崎放哉を描いた「海も暮れきる」で、次に「長英逃亡」(高野長英はわたしの持ちネタにありますので参考のために読みました)。
いずれも一読して、その丹念な取材と緻密な描写に驚嘆の念を抱いたものです。
そしてさらに「破獄」(何度も刑務所から脱走した男の物語)「仮釈放」(仮釈放した者の、その後の人生)「殉国」(ある一兵卒の沖縄戦線)と読み続けて深い感銘を受けましたが、いつのまにかわたしは吉村昭から離れてしまいました。パソコンの将棋と麻雀ゲームに時間をとられるようになってしまったからです。もう六、七年は経ちましょうか。
ですから半年前の夏が久しぶりの吉村作品との対面となりました。 「天に遊ぶ」(掌編小説集で、わたしは講談ショートショートをやりますから、大いに興味をもって手にしました)「桜田門外ノ変」ときて、あとはもう手当たり次第です。まるで堰を切ったかのように、古本屋で求めた本を、求めた順に読み続けます。
この先生の真骨頂でありますドキュメント小説といいましょうか。記録文学といいましょうか。現代、時代物を問わず、事実と事実だけを作家の眼で淡々とつなぎ合わせて小説世界を構築する一連の作品群には本当に唸ります。
そして自然に、この先生は「書く講釈師」だなと思うようになりました。昔の講釈師は調べたものを高座で演じ、語ってきましたが、この先生は調べられたものを「語らず」に「書いた」のです。ですから吉村昭は「書く講釈師」ということになります。
ちなみにこの先生は昭和二年生まれで、お若い頃に肺結核を患われたそうですが、それはわたしが惚れきるまで惚れきり、面識を得、人生の師と仰ぎました結城昌治先生と同じ生年に病歴でありました。
どうやらわたしはこうして死と隣り合わせに生きてこられた作家の方々が描く世界に強く惹かれる傾向があるようです。
……たまにはパソコンを休みましょうよ。本を読みましょうよ。べつに罰はあたりませんよ。