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佐野の頃(一)


 命萌ゆ父鯉のぼり作りをり


 わたしは昭和二十八年に栃木県佐野市で生まれました。物心は三才の頃につくといわれていますが、わたしの脳裏に残っている最初の記憶が、冒頭の句となります。眠りから覚めた(意識が生まれた)わたしの目の先に鯉のぼりを作っている父親の姿があったのです。母親が手伝っていたことも覚えています。

 しかしそのときのわたしに鯉のぼりなどがわかろうはずはなく、あのとき父親は鯉のぼりを作っていたのだということがハッキリわかりましたのは、父親は将棋を指しますが(アマ有段者)父が指した将棋の棋譜が地元新聞に掲載されて、その切抜きを読んだ小学校高学年のときです。父親の職業は(後に工員に転じますが)鯉のぼり製造業となっていました。

 
 厄除けの寺にて遊びしあの頃は友の匂ひに水のうまさよ


 わたしの生家の隣が神社で、子供たちの格好の遊び場となっていましたが、近所にあったお寺の境内でも、よく野球をやって遊びました。佐野の人たちが「春日岡さん」といって親しんでいた春日岡山転法輪院惣宗官寺。佐野厄除け大師のことです。社会運動家田中正造の墓もあり、この寺でラジオ体操に参加した思い出もありますが、今では全国区の知名度になっていて、本当に驚いています。

 ……こうして外見上はごく普通に友だちと遊んでおりましても、わたしは耐えず緊張し、怯え、不安感に苛まれていました。学校も仮病をつかって早退してしまい、登校拒否の走りでもありましたし、とにかく世の中が怖くて仕方がないのです。

 しかしそうかといってこんな風な性格が形成されてしまった直接の出来事があったわけではありません。
 生まれついての内因性の鬱があるのか、それとも両親に一度としてほめられたことがなく、また甘やかされずに育てられたことに端を発しているのかはわかりませんが、ごく自然の成り行きでこうなってしまいました。
by aizan49222 | 2010-02-11 13:29 | 愛山自伝・俳句と短歌


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