カテゴリ:愛山自伝・俳句と短歌( 18 )
筑波山
  うつむきて歩幅短く猫背にて筑波登れり還暦の汗

 毎年恒例の秩父お遍路さんを「今年は筑波山を登りましょう」と同行者に誘われての登山となりました。
 とにかく山登りなど初めてのことですから、準備段階から、着ていくものに悩みに悩み、そんな高い山にはたしてオレが登れるのかと、いやがうえにも不安が高まります。
 トレーニングのつもりでエスカレーターやエレベーターは一切使わずに階段での上り下りだけとなり、長距離散歩も始めました。
 で、その当日。
 つくば駅からのバスを筑波交流センターで降り、日本名道100選の「つくば道」を筑波山神社まで100分ほど歩き、ケーブルカーを8分ほど利用しましたが、何とか筑波山山頂女体山877mまでたどり着きました。
(筑波山は男体山、女体山のふたつの峰からなります。男体山は871mです。もちろんここを制覇してから女体山へ向かいました)
 下山はロープウエイに乗り、バスでつくば駅まで戻りましたが、何とも清々しい達成感がありました。

 六十路の手習い、でしょうかねえ……。



*写真~つくば道入口、つくば道を行く、筑波山神社山門、ご神木、男体山頂、女体山頂

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by aizan49222 | 2013-10-24 11:30 | 愛山自伝・俳句と短歌
還暦の年、秋の朝二題

秋の朝電気剃刀壊れたる

(髭をそり始めてからの電気剃刀の電池切れには腹が立ちますが、電気剃刀のスイッチをオンにして、壊れていることに気づくのは、とても虚しいことです)


秋の朝腐りかけたるバナナ食む

(わたしの朝食はコーヒーにトーストにバナナ。『こういう朝食はできるだけ避けたいもの』と、以前週刊誌の食事に関する特集記事で読んだことがあります。避けなければいけない理由は『虚しくなりますから……』)
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by aizan49222 | 2013-10-08 13:16 | 愛山自伝・俳句と短歌
二つ目時代(二)
  己が身を蔑み責めて切れ目なき自縄自縛の悪しき酒呑む

 弟弟子に本牧亭講談奨励賞を先獲りされてしまった頃、新劇の若手女優たちが(ある者は個人的ツテで、ある者は演出家に連れられて)芝居の勉強のためにと、師匠の元へ講談を習いにやってくるようになりました。
 要するに素人弟子ですから(わたしは師匠からそう聞かされていました)ここまでは何の問題もありません。
 ところがそのうちに彼女たちは講談を演じる女優としてマスコミにとりあげられるようになり、いつのまにか本職の講釈師を名乗るようになってしまったのです。
これには驚きました。
 話が微妙に食い違ってきています。
 しかしそれならばそれでこちらも今までのように彼女たちをお客さま扱いして遠慮することはやめにして、きちんと楽屋の基礎から教え、本職の芸人として仕込まなければなりません。
 それが彼女たちのすぐ上の兄弟子としてのわたしのつとめになります。
 が、その当時の彼女たちはあくまでも女優としての仕事を優先させておりましたから(その日の最後まで前座として残らずに、女優業のために途中で帰ってしまうこともありました)楽屋仕事も心ここにあらずといった状態で、わたしとしても兄妹弟子としての連帯感は生まれずに、どう接してよいのかがわかりません。
 こんな彼女たちの存在が許されたのは女流講釈師の育成をライフワークとする師匠の厚い庇護があったからです。
 師二代目神田山陽は大手出版取次業の若旦那として生まれ、最初は講釈場の定連で、講談界最大のお旦(スポンサー)でありましたが、そんな師匠が病膏肓本職の講釈師となってしまったために、特例として前座修業は免除されました。
 ですから師匠は己の体験もあることですし、当然つまなければならない本格的な前座修業を、彼女たちがつんでいないことには無頓着だったのです。
 前座という肩書きをつけて、すこしばかりの前座仕事を経験させただけで満足してしまったのです。
 しかしそんな楽屋事情はどこ吹く風。
 彼女たちは世の認知を受けて女流講釈師として市民権を得、その後の釈界(講談界)の流れを大きく変えてしまうことになりますが、とにもかくにも「本牧亭講談奨励賞事件」とあわせて、この「女流講釈師の誕生」が、わたしの人生を大いに狂わせる因(もと)になりました。
 伝統の世界に闖入してきた異端者たちが脚光を浴びてしまった、いわば庇を貸して母屋をとられてしまったようなものですから、わたしは面白いわけはありません。
後輩たちがわたしを追い抜き、そして売れていきます。
 わたしは大いに妬み、怨み、酒に溺れ、不始末を重ね、破門寸前、再起不能とまでいわれるようになりましたが、「断酒せよ」という師匠の命令のもとに実家へ強制送還されたわたしは、このままでは死ねない。もう一度勝負してやろうと思いました。
『ぼくも一緒にいってあげるから、二人で山陽先生のところにわびにいこうよ』
『兄(あん)ちゃん、世の中は敵ばかりじゃないんだぞ』
『僻むだけ僻んだら、そのあとは自分の体験を喋りまくれ』
 と励ましてくれた先輩の落語家さんたちの厚情に報いるために、また面識を得ることができた作家の結城昌治先生の作品をもう一度高座にかけるためにも、わたしは何としても酒をやめなければなりません。
 わたしは世の中に対する煮えたぎる復讐心を断酒エネルギーに転化して酒を断ち、十三か月後に復帰が許されました。
 その後わたしは入門以来十三年目で真打に昇進しましたが、思えば二つ目時代は悪夢のような十年でした。

(時系列に従った自伝は今回が最終回。次回からは俳句と短歌の発表が主となります)
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by aizan49222 | 2012-08-28 10:33 | 愛山自伝・俳句と短歌
二つ目時代(一)

  梅が香におくられきたる前座明け

 昭和五十二年二月。湯島天神では梅祭りが開かれておりました。 この日上野本牧亭昼席の一門会に楽屋入りした師匠は、コートを受け取ったわたしに向かって「君を五月から二つ目にするから、そのつもりで支度をしたまえ」と笑顔でいってくれました。
 客観的状況からみて、そろそろオレにも二つ目の声がかかるかなとは思っておりましたが、入門以来三年三か月の二つ目昇進は、まずは順風満帆な船出といえましょう。
 二つ目になるということは、前座とは違い、楽屋での自由行動が許され、半人前とはいいながらも、芸人として認められたということですから、こんなに嬉しいことはありません。体が震えました。
 しかし喜びもつかの間、これから三か月の間に挨拶用の名入りの手ぬぐいと黒紋付きの支度をしなければなりません(講釈師も落語家も二つ目になってはじめて紋付き、羽織、袴の着用が許されます)。
 手ぬぐいは寄席文字の橘右龍さんに一切合切をまかせましたが、問題は黒紋付きです。
 手ぬぐいを作るだけで精一杯で、とても黒紋付きをあつらえるまでの予算は捻出できません。
 そこで窮余の一策、わたしは高校時代からの友人Cに相談しました。
 彼は静岡で社会人を経験したあと、東京の大学へ入りましたが、大変に世話好きな男で、『何とかしよう』といってくれ、東京で暮らしている友人たちに声をかけて、祝儀を集めてくれたのです。
 わたしはその祝儀を受け取ると有楽町の古着屋へ行って、化繊ではありますが、わたしの家の紋が入った黒紋付きを購入することができました。
 このときの黒紋付きは今でも高座で着用していますが、袖を通すたびに二つ目昇進時の一連の出来事と、友人たちの顔を思い出します。

  一門の弟弟子に敗れたり六畳一間冬の壁蹴る

 本業以外に観光バスに乗車しての名所旧跡案内の仕事の他に、結婚披露宴とキャバレーの司会が、わたしの営業品目に加わりましたが、二つ目に昇進して数年後、わたしは、その一年を通して努力精進のあとが顕著であった若手講釈師におくられる本牧亭講談奨励賞を、弟弟子に先に獲られてしまいました。
 このときの悔しさといったらありませんでした。
 まさに天を呪い、地を恨みました。
 これが他の一門の後輩ならば、政治的配慮ということで、まだ我慢もできますが、一門の弟弟子に賞を先獲りされてしまったのです。
 わたしはうぬぼれなどではなく、今でもあのときのオレは芸といい、ネタ数といい、けっして弟弟子に負けてはいなかったと思っていますが、このときの落選が大きな心の傷となり、わたしは翌年この賞を受賞しましたが、喜びなどはありませんでした。
 それどころか神経を逆なでされてしまったような強い屈辱感を覚えたものです。

 ……わたしの二つ目昇進は、すこしも順風満帆ではありませんでした。
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by aizan49222 | 2012-08-07 16:56 | 愛山自伝・俳句と短歌
前座時代
「師匠、そろそろ名前をつけてください」
 入門して半月ほど経ちましたか、新宿末広亭へ鞄持ちでついていった帰り。ラーメン屋でご馳走になりながら、わたしは思いきって師匠にお願いをしました(師匠に願い事をしたのは、後にも先にもこのときだけです)。芸名をつけてもらわないことには、おれは本当に弟子入りが叶ったのかと、不安で仕方がありません。
 師匠は「ウーン、そうだねえ」と呟き、小考して「これでいいだろう」と陽寿(ようじ)という名前を割り箸袋の裏に書いてくれましたが、この名前は三日でボツになりました。語尾が下がって若者らしくないという理由からです。
 そしてその代わりにもらった名前が一陽来復の一陽。すっきりしていてわたしは大いに気に入り、同じく気に入ってくれた一門の客分馬場光陽先生は、わたしに直筆の「三方ヶ原軍記」の台本をプレゼントしてくれたほどです。
 わたしは一日おきに師匠のところへ電話を入れます。もちろん用事があれば出かけていき、掃除、片づけ、買い物等の雑事をこなすわけです。
 いちばん最初に教わりました読み物は「鉢の木」以下「笹野権三郎」「清水次郎長伝」の順となります。
 カセットレコーダーなど持っていませんから、旧式のテープレコーダーを風呂敷に包んで担ぎ持参し、師匠に読み物を吹き込んでもらうのです。
 ……さすがに師匠はこのテープレコーダーには驚いたようで、その後しばらくして「これを君に貸してあげるから」という名目で、わたしにカセットレコーダーをくれました……。
 そして覚えたあとは聴いてもらわなければいけません。
 師匠の稽古は講談を音階としてとらえて、語尾の上げ下げ、セリフの緩急を、それこそ音符をなぞるようにして教えていきます(師匠は社交ダンスの教師を審査する資格をもっていました)。
 人物描写や性格設定などについて注意を受けたことは一度もありませんが、形や仕草にはうるさかったです。
 初高座は入門後三月目、麻布にあったヘルスセンターでの「鉢の木」。
 講談定席本牧亭に月に十日ほどつめての楽屋修業と、前述した通りに師匠の鞄持ちで落語の席や地域寄席についていくのが、わたしのおもな仕事で、アパートのある中野から本牧亭のある御徒町までを国電で往復してセブンスターを買うと足りなくなるワリ(給金)しかもらえずに、いかに月六千円の家賃とはいえ、あれでよく暮らせていけたものだと、未だに不思議でなりません。


  無意識にうつむき歩き肩縮む身に備はりし悪癖を知る


 ……その日師匠は帰宅途中に急に振り返りますと、鞄持ちのわたしに向かい「君は下を向きながら歩く癖がある。それはいけない。もっと胸を張って歩きなさい」と諭しました。師匠はわたしのそれまでの人生を見事に見抜いてしまったのです(将棋を指しながら形勢が悪くなると舌打ちをする癖も、後日楽屋で師匠に指摘されました。これは明らかに父親譲りです)。
 しかしわたしのこの癖は未だになおってはおりません……。

 ところで釈界(講談界)は何度も合同分裂を繰り返してきていますが、わたしが所属したその頃の日本講談協会は神田山陽一門と田辺一鶴一門の両派のみで形成されていました。
 しかしそのほとんどは俳優や他の演芸畑からの横滑り組で三十代を越えた者が多く、一鶴門下の中には天狗連(セミプロ演芸家)育ちで、師である一鶴先生のことを師匠とは呼ばずに「一鶴さん」と名前で呼んでいる者もいたほどです(彼は一鶴先生よりも年上でした)。
 頭数が四十人もいなかった当時の東京の講談界。師匠も一鶴先生も、とにかく人数だけは揃えようと競って弟子をとったのかもしれませんが、わたしと同世代の者が楽屋にいないのです。
 ですからわたしは協会の違う宝井畑の人たちと付き合うようになり、その関係は今でも続いています。
 落語の若手の人たちには(修業の辛さ云々は別の話にしても)毎日通う寄席があります。太い伝統芸の枠組みの中で守られているという安心感がある。が、講談の若手にはそれがない。
 わたしの場合一日おきに師匠に縛られているという拘束感はありますが(もちろん緊急連絡が入ればいつでも駆けつけます)講釈師として毎日出かける席がないというのは、あまりにもせつなく、焦燥感にも責め立てられて、空いた時間を埋めることに苦労しました。
 で、よく酒を飲みました。
 観光バスに乗車して名所旧跡巡りの仕事を始めたのも、この前座時代からです。
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by aizan49222 | 2012-03-04 22:19 | 愛山自伝・俳句と短歌
入門まで(二)
 鬱々とした、本当に鬱々とした学生生活でした。
 入学してからふた月後には、わたしは経済的事情という理由をつけて、両親には無断で、学校に休学願いを提出しました。完全なノイローゼ状態で精神の収拾がつかなくなってしまったのです。
 ですから時の流れを氷結させたかったし、これで何かが変わると思いましたが、何も変わりませんでした。

 ……夏休みの終わりが近づいてきました。
 停留所でバスを待っているわたしを、母親は四階建ての社宅の屋上から見送っています。距離はありますが、彼我に視界を遮る建物はありません。見つからないようにしているのでしょうが、わたしはバス停に立った瞬間から、母親の存在には気がついていました。
 しかし母親が心配するのも無理はありません。
 わたしは帰郷している間、休学したことはもちろん、追いつめられ、悶々としている胸中を一言ももらさずに、ただふてくされ、ごろ寝をしていただけだったのですから……。
 わたしは誰かに道を決めてほしい。先導してもらいたいと、そればかりを考え、いつまで経っても自立できない自分に腹を立てておりました。

 川崎の下宿に帰っても、時々階段を上がってくる野良猫にエサをあげること以外にやることはありません(アンパンをあげたこともありますが、猫はアンパンは食べませんね)。このまま勉強をやり直して、学生生活を続けようという考えと、落語家は断念して、何故一日も早く神田山陽の弟子にならないのだという思いが葛藤して、どうしても行動に移すことができません。
 が、時間だけは容赦なくすぎていきます。相変わらず寄席通いはやまず、故郷から共に上京した高校時代の同級生Aの新宿の下宿を訪れることだけを唯一の楽しみに、方針が定まらず、心の整理もつかないまま、わたしは翌年の四月に復学しました。

 ……通っていた英語の専門学校をやめて、「アルバイトに精を出して資金を貯め、アメリカに渡る」と、Aがわたしに告げました。
 Aは高校の頃から英語が得意で、アメリカでの暮らしに憧れておりましたが、「あの学校の授業では、とても英語の力は身につかない。だから直接アメリカに渡るのだ」と言います。
 わたしよりも先にAの欲求不満が爆発した……というよりも、人生の目的に向かって軌道修正を試み、本格的に行動を開始したといったほうがより適切でありましょう。
 わたしはその頃川崎を移り高校の先輩であるBと、中野の安アパートで共同生活を送っておりましたが(中野と川崎を電車とバスを乗り継いで二往復しただけで引越の荷物を運び終えました)AはBを頼って築地の魚河岸でアルバイトを始めました。Aの目に光がもどりました。
 わたしはまたも敗北感を味わい、自責の念に苛まれました。せっかく復学したというのに、このままいけば留年は間違いありません。去年の繰り返しをしているにすぎないのです……。

 その年も寒さを感じる季節になりました。オイルショックによるトイレットペーパーの買い占めで、世間はだいぶ騒いでおります。南こうせつとかぐや姫の「神田川」が大ヒットをしておりました。
 そんな頃、Aと共に高校時代の親友でありましたCが上京してきました。受験の下見のためです。
 Cは高校卒業後地元で職を得、短大の夜間部に通っておりましたが、これからは心機一転東京の大学で学ぶのだと申します。
 友人たちが皆自分の道を進み始めております。
 彼らの前で、もうこれ以上ぶざまな姿は見せられない!!
 それは突然沸き起こった思いでした。
 わたしは友人たちの行動力を目の当たりにして、ようやく迷いから吹っ切れたのです。
 腹の底から突き上げてくる熱いものを感じました。
 思えばずいぶん長い道のりでした。

 中央線沿線のD(高校は違えど、やはり故郷の友人)の下宿に数人が集まって宴会が始まりました。皆Dのギターに合わせてフォークソングを歌っています。わたしはそのスキをうかがって抜け出し、駅前の公衆電話から山陽に電話をかけました。
「浅草演芸ホールに出ているから、そのうちに訪ねていらっしゃい」
 と山陽は言い、わたしはその通りにしました。

  浅草の寄席の隣の喫茶店弟子入り叶ふコーヒー冷へる

 昭和四十九年二月二十二日、わたしは二代目神田山陽の弟子になりました。二十歳のときでした。
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by aizan49222 | 2011-10-02 22:27 | 愛山自伝・俳句と短歌
入門まで(一)
 昭和四十七年春、わたしは駒沢大学に入学しました。芸人志望の決断もつかず、そうかといって地元で就職する気もありませんでしたから、進学する以外に進むべき道はなかったのです。
 東京へ出れば何とかなるという甘い気持ちもありました。

 下宿は川崎で、近所に父方の叔父が住んでいるところから父親が決めました。近くに川崎大師があります。
 一階は大家と倅夫婦の住居。外側に張り出された階段を上がり、下宿人が住む二階は三室で、わたしは角部屋、四畳半一間で一万五千円の家賃。扇風機もコタツもありません。ラジオと文机だけが唯一の財産で(ラジオからはよく吉田拓郎さんの「旅の宿」が流れてきましたし、眠れぬままにニッポン放送のオールナイトニッポンも聞きました)トイレも流しも共同でした。

 しかしわたしはこの下宿で一人暮らしを始めてから、己の未熟さを痛感することになってしまいました。
 たかだか一週間でホームシックとなり、実家へ帰ってしまいましたし、すこしも親離れしておらず、大人ぶっていた自分がいやになってしまったのです。毎日が不安で、酒とタバコを覚えたのもこの頃です。

 駒沢大学落語くらぶに所属しましたが、それは部活でもしないと、まったく学校に行かなくなってしまうからで、わたしはその生活のほとんどを寄席通いに費やしておりました。
 浅草演芸ホールに新宿末広亭は入替なしですから、昼の前座さんから夜トリまで昼食抜きで聴きつづけました。東宝名人会は他の寄席ではお目にかかれない出演者が揃いましたし、マニアックな池袋演芸場と都会的な上野鈴本にも足を運びました。

 楽屋口で待ち受けて憧れの的である落語の師匠に弟子入りを乞おうとしましたが、いざその場面になりますと、まるで金縛りにあったかのように足がすくんで、どうしても前に進みません。何度試みてもダメでした。
 そしてそのたびに身を切られるような挫折感を味わってしまうのです。
 今冷静に振り返ってみれば、寄席通いをする間に知り合った若手落語家さんたちと酒を飲み、話を聞き、その生存競争の激しさと、洒落のきつさをみるにつけ「お前の性格では、とても落語家は無理だ」と強い内的禁止がかかってしまったものと思われます。

 ……川崎の下宿から学校へ向かうには、まずバスで川崎駅まで行き、それから南武線で武蔵小杉、東横線に乗り換えて田園調布からさらにバスに乗らなければなりません。
 この道のりが何とも煩わしく、わたしはこの煩わしさを登校拒否の理由にしていました。
 そしてその日も川崎駅から南武線には乗らずに、上りの京浜東北線の電車に乗ってしまったのです。
 ……初めて訪れた改築間もない上野本牧亭の昼席は若手講談会でした。客入りは薄く(その定連たちが昔の講釈師の噂話をしていたことは忘れられません)落語界にくらべると、とても若手とはいえないような年齢の出演者で、わたしは愕然としました。

  張扇薄き座布団下足札上野の昼の気怠き釈場

 わたしは寄席の高座を聴くだけで、弟子入りの承諾をもらっている山陽とは、上京してからも一切連絡をとってはいませんでした。
どうしても自分の人生を決めることができなかったのです。
赤面のあまり自分の過去に五寸釘をぶち込んでやりたくなります。
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by aizan49222 | 2011-09-19 12:58 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・高校時代

  高校の学生服は身に重く鬱なる心閉ぢ込めてをり

 高校へは行きたくありませんでした。
 本当に行きたくなかった!
 とにかくわたしは芸人になりたかったのです。
 しかし具体的にどのジャンルに進むのかがみえてきません。
 一人話芸に憧れていることだけは間違いありませんが、漫談家か、落語家か、それとも講釈師か……。それがわかりません。
 悩みに悩みました。
 朝は一応学校に行くふりをしますが、すぐに戻ってきて、社宅の物置に隠れてしまいます。小学校のときと同じ登校拒否です。自分で自分の不決断に嫌気がさしました。
 わたしが登校しないものですから、担任教諭から父親の職場に連絡がいき、わたしの不登校はバレてしまいましたが、自分が成すべきことは学校に行くことではなく、芸の道に進むことなのだという思いが強迫観念となり、そのことを成していない自分に激しい劣等感を抱きました。日々、自分を責め立てます。
 東京ぼん太先生の歌を口ずさみ(わたしはこの先生の歌はすべて歌えます。しかし歌えるカラオケがありません……どこかにあるのかな?)学校の図書室で東京新聞の寄席情報欄を見るのが唯一の慰めで、まったく鬱々とした三年間でした。親友はできましたが、すこしも楽しい高校生活ではありませんでした。
 わたしは寄席の全盛期は昭和三十年代だと思っておりますが、その三十年代末から昭和四十年代前半にかけて入門した(つまりわたしが小学校から中学の頃) 先輩たちと楽屋を共にいたしますと、往時を振り返り、今でも忸怩たる思いに囚われてしまいます。
 しかしその時代に学校をサボってまでもテレビやラジオの演芸番組を観て、聴き続けてきたことが、今のわたしの貴重な芸の肥やしになっていると思っています。まさに不幸中の幸いです。
 そのうちにクレージーキャッツの映画も製作されなくなり、ぼん太先生のレギュラー番組もテレビから消えました。
 わたしは思いきってぼん太先生に弟子入り志願の手紙を書きましたが、丁重な断りの返事をいただき、後にわたしの師匠になる二代目神田山陽からは入門OKの返事をもらいましたが、わたしはどうしても決断することができませんでした。
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by aizan49222 | 2011-05-06 17:29 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・中学時代(二)
 クレージーキャッツのあとを追うようにして、ザ・ドリフターズが人気者となりました。わたしは音楽コントが大好きで、早速「ズッコケちゃん」のレコードを買いました。コミックバンドに強い憧れをもち、自分がもしコミックバンドを結成したらと、ザ・フールという名前まで考えました。

 その頃の静岡はNHK総合に教育、そして民放が一局しか入りませんでしたが、わたしは時には学校をサボってまでも、テレビの演芸番組を見続けました(このことが今のわたしの貴重な財産となっています。


  炬燵入り円生聴きたくなりにけり


 落語もずいぶん聴きましたが、その頃わたしが聴いた師匠連は、ほとんどの方が鬼籍に入られておられます。子供心にも円生師匠の至芸には感動を覚えて「円生は上手すぎるから嫌いだ」といった父親の言葉は忘れられません。柳家金語楼先生の新作落語集が三冊出て、わたしのバイブルとなりました。

 一方、本で覚えた落語をクラス会などで演じることは続けており、「おまえが落語をやってる佐藤か!もっと真面目な男かと思ってた」と、技術の先生にいわれたことがあります。

 講談は後にわたしの師になる二代目神田山陽を聴きました。実にわかりやすく、落語のように面白い講談でした。テレビで「井伊直人」ラジオで「河村瑞軒」「忠僕元助」「応挙の幽霊」等……。あとはわたしと同期の宝井琴調さんの師匠である馬琴先生。

 東京ぼん太先生にすっかりハマってしまったキッカケは、同じ栃木県の出身であるということと「まあいろいろあらあな」という歌が大ヒットしたからです。この曲はお笑いタレントにしては珍しくシリアスで、お笑いといえば一段低く見られてしまうようなその頃の風潮の中、お笑いタレントでありながらスターダムにのし上がったぼん太先生に、わたしは夢中になりました。

 ぼん太先生のトレードマークである唐草の背広にあやかって、唐草の服を作ってくれと、子供のようなダダをこねて母親を困らせたり、その歌詞をすべて暗記するほどに、LPレコードを何度も何度も聴き直し、漫画雑誌の少年キングに連載されていたエッセイをむさぼるように読み、主演映画も観ましたし、ファンレターも書きました(サイン入りのポスターが同封されたご返事をいただき、わたしは父親の顰蹙の目を意識しながらも、そのポスターを机の横の壁に貼ったものです)。

 それから星移り、時変わり十数年の歳月が流れ、何という定めか(古典の講談口調)!わたしは千葉県のクラブでぼん太先生の司会をつとめましたが、控え室でご挨拶をさせていただいたときには足が震えておりました。
 まずヒット曲「東京の田舎っぺ」を歌って、ぼん太先生のショーは始まりました。この思い出はわたしの宝物です。

 昨日までグループサウンズの話をしてキャーキャー騒いでいた女の子が、ある日突然朝の教室で「欽チャンに二郎さん」といい出しました。お笑いの世界から若い女の子たちのアイドルとなったコント55号の登場です。
 そのコントは今までに見たことのない面白さで、その影響を受けたわたしは中学の謝恩会で、友人数人と病院での手術風景のコントを演じましたが(もちろん自分で台本を書いて)終わって下がった舞台の袖で「やはり佐藤はこういうことをやり続けていきたいのか」と、わたしに謝恩会でコントをやることを許してくれた先生にいわれたものです。
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by aizan49222 | 2011-02-08 20:11 | 愛山自伝・俳句と短歌
清水の頃・中学時代(一)
 自宅である父親の会社の社宅の二階から中学校は見えました。学校などは家から近ければ、ただそれだけでよいのです。
 しかし中学校は小学校よりも、さらに広い地域から生徒が集まってきます。わたしは中学生になることがとても憂鬱でした。わたしはとにかく人間関係を構築することが苦手なのです。
 中学一年のときのことは、あまり記憶に残っていません。毎日の暮らしが無味乾燥としていたからかもしれません。わたしは集団の中に身をおいても、すこしも楽しくはありません。

 担任は数学の男の先生でしたが、ヘビースモーカーで、自分でもよほど懲りていたらしく「あんたっち(これが口癖)が大人になってタバコを吸っていたら、そのときは先生がとりあげる。そのくらいにタバコは体に悪いんだよ」といったことを覚えています。
 また「五輪の旗の色は青木組合(アオ・キ・クロ・ミドリ・アカ)と暗記しなさい」ともいっていました。そんなものを暗記しても仕方がないと、そのときは思いましたが、後年オリンピックが近づきますと、必ずそのことを思い出すのも妙な話です。

 二年のときのN先生はユニークな人でした。国語と体育の色の黒い細身の女の先生でしたが、毒舌とユーモアがまじった授業はとても面白く、独自の教育方針をおもちのようで、教室にもみなぎるような活気があふれていて団結力があり、わたしはこの先生が大好きでした。相性が合ったのです。学生時代で一番楽しかった一年であったかもしれません。

 Aという親友もできました。この男にわたしは小学校の頃にイチャモンをつけられて殴られたことがあるのですが、それが親友になってしまったというのも合縁奇縁なのでしょうか。彼とは何度か一緒に映画を観にいきました。もちろんクレージーキャッツです!

 ……そのAと土曜日の放課後遅くまで教室で遊んでいて、何かの悪さをして、校内を見まわっていた男の先生に見つかり、職員室前の廊下に正座をさせられたことがありました。
状況説明を求める先生に、Aは明らかな嘘をついています。
 その嘘がとおれば、わたしたちは無罪放免となり、わたしも同じ嘘をついたほうがいいとは思ったのですが、わたしは嘘をつくことができずに、逆に嘘をつかないほうが許してもらえると判断して、心の中でAにわびながら、わたしは正直に話しました。が、結局は許してもらえませんでした。

 嘘も方便といって、お釈迦様さえ許してくださっている自分の身を守るために必要な嘘を、わたしはどうしてもつくことができないのです。これは嘘をついてはいけないという道徳的な問題とは根本的に違います。嘘をつかないのではなく、嘘がつけないのです。他者への依存傾向が強くて、自我が弱いからなのでしょう……。

 入部したかった文芸部が有名無実の存在でありましたので、部活は野球に卓球に柔道部を転々としました。が、どれも長続きはしませんでした。運動神経はまるでダメであっても、少年はスポーツ選手に憧れるもので、当時のわたしもその例にもれなかったのです。


  初蝉や肩をいからし網の先


 この句は中学二年コースという雑誌に投稿したもので特選に選ばれました。選者は中村草田男さんで、その後わたしの俳句は中学生向けの新聞等でも何度か入選しました。学校の図書館で山中峯太郎さんが訳したコナンドイルの名探偵ホームズを借りまくり、星新一さんのショートショートを次から次へと読破したのもこの頃です(気に入った星さんの作品は弟に読んで聞かせました。落語も聴かせたことがあります)。
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by aizan49222 | 2010-11-05 10:56 | 愛山自伝・俳句と短歌